本渡諏訪神社~天草放浪記~

今日は「建国記念の日、本来は紀元節」ですので
それに由来するブログと思ったのですが
先に神社について

タイトルは天草放浪記ですが、、
先日父の納骨で天草の家に戻った時
布団が大丈夫かと思ったのですが
思った以上に埃が中々に凄かったので、、
くしゃみと喉の痛みで眠れずで本渡のホテルに泊まりました。
朝チェックアウト後に
近くの神社にお参りに
それが
本渡諏訪神社でした。。

~由来は~

鎌倉時代の文永11年(1274)、並びに弘安4年(1281)の二度に亘る「元寇」の折、本渡城主の天草大夫大蔵太子という女傑が水軍を率いて出陣し、諏訪大明神の御加護により 我が国未曾有の国難を神風をもって御守護いただき 輝かしい戦功をいただいた神恩に感謝し、2年後の弘安6年(1283)8月1日、天草氏領土内の総鎮守として信州諏訪の御本社より諏訪大明神の御分霊を奉じ 本砥郷山口の里に鎮祭したのが創祀です。

爾来、天草氏の氏神、郷中の総社として広く崇敬されましたが、寛永14年の「天草・島原の乱」で他の社寺と共に一揆勢の手による兵火にかかり、ことごとくの社殿神宝旧記を焼失しました。 乱の後、天草は天領となり、初代代官・鈴木重成公(本町 鈴木神社御祭神)が着任し、神社仏閣の復旧につとめ、人心の安定をはかりました。特に当神社の再建を急がせ、海岸浜宮の地(現在の中央銀天街)に新社殿を造営し、「天草・島原の乱」から6年後の寛永20年(1643)、これまでの本砥郷山口の里より御遷座となりました。

弘安6年(1283)から寛永20年(1643)までの360年間、第1次鎮座地であった天草市本渡町山口には、「諏訪神社旧趾」の記念碑があり、その御鎮座の由緒を伝えています。

第2次鎮座地である現在の天草市中央新町銀天街アーケード中心地には、寛永20年(1643)から大正4年(1915)までの272年間鎮座。この時、初代代官・鈴木重成公は天草・島原の乱後に荒廃した島の耕作の便宜をはかり、当神社の例大祭であった8月1日(現在では11月1日より7日)に七日間の「農具市」を開かせます。当時、島内には商店は少なく、この農具市が次第に「雑貨市」に広がり、島民は農具だけでなく、一年間の生活必需品の一切を買い求める「本渡の市」に年々発展致しました。

~本渡諏訪神社のHPより抜粋~

実は初めて行きました。。
行った空気がとても氣持ちよく
カーナビに住所入れてもでてこずで
夫が「天草はキリシタンの町でうってるから神社を出さないようにしているのか」などと言っておりました。
真相は分からずですが、。

靖国の碑もあり
十五社もあり
ここいいなーと感じる場所でした。。

教会もいいのですが
天草の神社もよかですよー(^^♪

父が大好きだった天草
私ももっともっと好きになりたいと思います。
知らない場所たくさんあるのでちょこちょこいけたらいいなーと思います(^^♪
これからお墓詣りなどでちょこちょこ戻る予定なのでー

あまり神社などで写真撮らないのでHPより